自己が自己であることを拒否され≪ドイツ・哲学・社会≫

本来の自己に対立する状態に置かれるという考え方は、ドイツ観念哲学に発する。

フィヒテは、この状態を自我の活動の疎外による非我の成立のうちに認め、ヘーゲルは、フィヒテの主観的観念論の立場を超えて、対象世界は「疎外された精神」だと考えた。

つまり「精神」が自己を対象化することがすなわち疎外であったのである。

「精神」は、自己を疎外しかつそれを自己のうちに取り戻す作業を通じて「絶対知」に到達できるとした。

したがって、ヘーゲルにおいては、疎外は「精神」の問題としてとらえられたので、疎外からの回復も、認識活動によって容易に可能と考えられた。

フォイエルバハは、このヘーゲルの「精神」が、キリスト教における神と同様、抽象化され絶対化された人間の本質にすぎないことを指摘し、この絶対化に疎外をみた。

つまり、宗教とは人間の本質の疎外によるものであると考え、また観念論は理性の疎外によるものとし、それらを批判した。

しかし彼は、こうした疎外の根源を暴いたが、それを廃止する基礎を示しえなかった。
update:2010年02月05日